Melchior




鉄製の巨大な門が重く軋み、もったいぶりながら開く。
二頭引きの馬車がゆっくりと、砂利を踏みながら入ってきた。
それを見つけた城主、タコンブル子爵が大きな体を揺らしながら馬車に走りよる。
「おぉ、私の! 私の可愛い天使よ!」
馬車の窓から見える顔。 まだ十三、四歳だろうか、整った顔立ちに幼さが残る。
伏せられた黒い瞳からは、高揚や恐怖、闘争。 様々な感情が込められていた。
肩にかかるほどの長さできちんと整えられた黒髪は、ただ風に揺られている。

馬車がゆっくりと止まり、嘶きが一つ響いた。 控えていた従者が近づき、扉を開ける。
やっと、やっと着いた。 何年かけて来たのだろう。
そう小さく呟き、僅かな笑みを浮かべながら少年がタラップを降りてくる。
待ちかねたように子爵がタラップに足をかけ、少年に手を差し出す。
「ハイスベーインから! なんて長旅を! 疲れただろう? 自慢の広間に案内するよ!」
巨体から発せられる仰々しい大声に体が強張る。
それをなんとか御した少年は「はい、タコンブル様」と笑みをもって返事をした。

子爵が少年を連れて広間へと続く扉に向かう。 脂ぎった大きな左手に、少年の小さな右手が握られていた。
「今日からはここを故郷と思ってくれ! 私の可愛い天使よ!」
天使、と呼ばれた少年はただ「はい、タコンブル様」と繰り返していた。
「あれ、えぇと、そうだ。 きみの、きみの名前はなんと呼んだらいいのかな?」
「僕の……」
「これから一緒に暮らす事になるんだ。 まずは名前から知り合おうじゃないか! 私はショッツヒルト=タコンブル!」
「僕はメルヒオルです。 メルヒオル=ニードリクです」

肌寒さがようやくなくなった頃、メルヒオル=ニードリクは馬三頭と引き換えにここにやってきた。

叔母から引渡し先がこの城だと聞かされた瞬間、メルヒオルは喜んだ。
元より、この城に入れるのなら手段は問わないと決めていた。 それが向こうから手招きしてきたのだ。
いつも怪物を見るような目でメルヒオルを睨む叔母も、厄介払いが出来るだろう。
そうして、メルヒオルはタコンブル子爵の居城へ「穏便に」入る事が出来たのである。

メルヒオルが自らを引き換えにようやく辿り着いた城。
外壁に装飾は少なく、それに倣ってか内装もメルヒオルが思っていたより簡素なものだった。
「意外に地味だなー、とか思っているのかい?」
花の見える窓辺に据えられたソファにメルヒオルを誘導し、子爵がその向かいに腰を下ろす。
「……いえ、僕他の城を見たことがないので……」
「あはは! そうかい! 私のご先祖のお達しでね、派手な内装より堅甲な外壁を! との事なんだ!」
「そうだったんですか、堅実な方なんですね」
「私としては、もっと綺麗な方が好きなんだけどね! その方がきみにも似合うだろう!」
「ふふ、お心遣いありがとうございます、タコンブル様」
「きみに喜んでもらいたいんだ! 何か欲しいものがあったら何でも言いなさいね!」
「分かりました、タコンブル様」
「それじゃあ、これからきみが使う部屋に向かおうか!」
「はい、タコンブル様」

石の階段を登り、二階へと上がる。窓から僅かに雪の残る山々が覗いていた。
使い古された絨毯に足跡を残しながら長い廊下を進み、三つめの扉の前で二人の足が止まった。
「さ、ここがきみの使う部屋だよ! きみのために家具や照明を新調したんだ!」
ノブを回し、自分のものとなった部屋へと踏み込む。
広い。 今まで住んでいたあの家がすっぽり入ってしまいそうだ。
天井にはコロニアル調のシャンデリアが下げられており、まだ火のついていない蝋燭が載せられている。
「気に入ってくれたかい? 何か欲しいものがあったら私に言いなさいね!」
「はい、僕のためにこんなに綺麗な部屋を用意して下さって、ありがとうございます」
「きみのためなら惜しくないよ!」 子爵は満足そうな笑みを浮かべた。
メルヒオルはその笑みが好きになれなかった。
「さぁ、今日はゆっくり休んで! 食事の時はまた呼びにくるよ!」 そう言って部屋から去る子爵。

広い部屋に一人になったメルヒオルは白地に茶色の細かい刺繍の入った、ふかふかの寝台に寝転がった。
あぁ、この城にあの人がいるんだ。 ずっと探していたあの人がいるんだ。
それを考えると、馬車に揺られ続けた疲れも消えていった。

日が落ちる頃に、壮齢の使用人が食事の時間だと伝えにきた。
使用人の案内について食堂へと向かうメルヒオル。 薄暗くなった廊下を歩く。
ふと、南側の廊下に目を運ぶ。 そこだけが異様に暗く、空気まで黒色に染まっているようだ。
使用人はそれに構わず進んでいく。 いつもの事なのか、はたまた気づいていないのか。

食堂に着くと、すでに子爵がメルヒオルを待っていた。
「どうだい? ゆっくり眠れたかな?」 口角を上げてにやにやと笑う。
「はい、タコンブル様」 やっぱりあの笑みは好きになれない。
テーブルの上にはツタを模した刺繍入のクロスがかけられており、ウサギ料理が運ばれていた。
「さぁ! どんどん食べていいんだよ! ……若いんだから!」
「はい、ありがとうございます」
運ばれる料理に次々とかぶりつく子爵。 メルヒオルはなるべくそれを見ないように食事を進めた。
1時間ほどで、最後の一皿を使用人が持ち去る。
「どうだい? 口に合ったかな?」
「はい、美味しかったです」 メルヒオルはウサギ料理が嫌いだ。
「そうかい! それは良かった良かった!」 ご機嫌な笑い声を上げる子爵。
「それでだね…… メルヒオル、後で私の部屋に来てくれないかな?」
一瞬、メルヒオルの体が固まった。
「……はい、分かりました」 僅かに声が震える。

蝋燭の光がちらつく廊下をメルヒオルが歩く。 子爵の部屋は教えてもらっている。
扉の前で、しばらく佇む。 これから自分の身に起きる事は、覚悟していた。
意を決して、扉を開け、踏み込む。
「あぁ、待っていたよ。 私の可愛い天使よ」 子爵は寝台に腰掛けていた。
「……お待たせして申し訳ございません」 声が、震える。
「いいんだよ、気にしないさ。 もっとこっちにおいで」
行きたくない。 そうと思っても逆らえないのはわかっている。
ぎこちない足取りで子爵に近づく。 蝋燭で照らされた巨体がはっきりと見えるようになった。
やがてメルヒオルが寝台の脇に立つと、隣に座るように子爵が促す。
「きみは可愛いね、いや美しい!」 汗ばんだ大きな手が、メルヒオルの腕をなでる。
「ありがとう……ございます、タコンブル様」 逃げたい。
「今はそんな固い呼び方しないでくれ! ショッツヒルトと呼んでくれたまえ!」
「はい、分かりました…… ショッツヒルト、様」
「きみは真面目なんだね! なんて可愛らしい!」 太い腕がメルヒオルの腰にからみつく。
背中に綿の詰まったベッドの感触を受けてからの出来事を、メルヒオルは覚えないようにした。


また日が登り、朝が来た。 メルヒオルは自分の部屋で目覚める。
今日は朝から子爵は不在。 友人の所に行っているらしい。
着替えの服を持ってきた使用人が、心配そうにこちらを伺う。
背中のボタンをつけてもらう間に、メルヒオルが使用人に尋ねた。
「あの、この城の歴史が分かる資料とか…… ありますか?」
「歴史が? あぁ、書庫ならございますが、資料の詳しい場所までは分かりかねます」
「書庫があるんですか! 案内して下さい!」 メルヒオルの顔に笑みが浮かぶ。
「分かりました、お食事が済みましたらご案内いたしましょう」
着替えが終わったメルヒオルは、食堂へと走っていった。

簡単な朝食を終えたメルヒオルは、先程の使用人に話しかけた。
「お願いします、案内して下さい」
「そんなに急がなくてもよろしいですよ、本は逃げませんから」 笑いながら使用人が答える。
朝の柔らかい光のさす廊下を南へ行く。 庭師が花の手入れをしているのが見えた。
書庫へと進んでいくほどに、廊下の隅に埃が目立つ。
「滅多に書庫に入る者がいませんからね…… 子爵もあまり、えぇと、本をお読みにはならないもので」
「あぁ、そうなんですか」 納得がいった。
やがて大きな、木製の扉の前に立つ。
「ここです、暗いのでお気をつけて」 壁に下げられたランタンを手に取り、火をつける。
簡素な鍵を開けて書庫の中へと使用人が入っていく。 メルヒオルもそれに続く。

埃まみれの書庫に、久しぶりに光が灯る。 乱雑に棚に押し込まれた本が、鈍い光を返す。
メルヒオルの部屋を二つ繋げたほどの大きさを持つ書庫が、幾年ぶりの来訪者を迎えた。
二人は舞い上がる埃を手で払う。
「本当に誰も入ってないのね…… 私も最後に来たのはいつだったかしら……」 袖で口を覆う使用人。
「あの、もう僕一人でいいですから」 メルヒオルは本を手に取り、表紙をなでる。
「本がお好きなのですか? 分かりました、ランタンの火にはお気をつけて」
埃から逃げ出したいと言わんばかりに、使用人は足早に書庫を出ていった。
紙の匂いが充満し、汚れで朝日を霞ませる窓が二つ。
メルヒオルがこの城で二番目の目標にしていたのが、この書庫だった。

本をどかしてランタンを置き、目的のものを探す。
この城の、見取り図。 なるべく古いもの。
狩りの手引きやら騎士の心構えやら美味しい鴨料理のレシピやらをかいくぐる。
手に取り、戻し、また別のものを手に取り。 服はもう埃で真っ白だ。
落とした本を拾う時、壁際に黒い布に覆われた大きな何かがあるのが目に入る。
黒い布をめくると、中にあったのは祭壇だった。 巨大な十字架が祀られている。
書庫には祭壇があるものなのか、とメルヒオルは疑問に思ったがまた布を戻し、本をあさりに戻った。
まだ一つ目の本棚すらほとんど調べ終えていないのに、使用人が昼食の時間を知らせに来た。
緑だったシャツを真っ白に変貌させたメルヒオルを着替えさせてから、使用人が昼食を持ってきた。
広い食堂で一人、メルヒオルは食事をとる。 それが済んだら、また書庫へと戻る。
夜まで探しても、今日のところは目的のものが見つからなかった。
また明日もここに来る。 いつか必ず見つける。
メルヒオルの決意は堅い。

それから、時間を見つけては書庫に向かうようになった。
夜に子爵から「呼び出し」を受けながらも、メルヒオルは目的のものを探し続けた。

書庫で埃にまみれる日々を半月ほど過ごした時、メルヒオルは一冊の本に挟まれた小さなメモを見つけた。
「私は見つけた」 それだけでメモは終わっている。
裏返すと、メモを書いたであろう人物の名が書かれていた。 インクが消えかかり、名は読めない。
クロドビク。 かろうじて、性だけは読み取れた。
それを見つけたメルヒオルは、しばらくの間動けずにいた。
メモを愛おしそうに指先でなで、一つだけつぶやいた。
「僕も見つけた」 それだけをつぶやいた。
メモをシャツの胸ポケットにしまい、女性へ贈る詩の書き方の指南書を棚に戻す。

その晩、使用人に呼ばれて書庫から出てきたメルヒオルの顔は、希望にあふれていた。

「ずいぶん本が好きなんだね、きみは」
人参のスープのお代わりを待つ間、子爵が尋ねる。
「母に知を広め見聞を持てと教えられたもので」
「へぇ、そうかいそうかい、いやぁ良い母上だね、うん」
「母は僕に、色々なものを教えてくれました」
「それなら私も負けていられないな! きみの母上以上のものを与えなくては!」
「お心遣い、ありがとうございます」
「遠慮はいらないよ! 私ときみの間なんだから!」
ご機嫌な子爵を視界の隅に追いやり、ポケットに手を当ててメモの感触を感じる。
僕は間違っていなかった。 ここまで来たんだ。
メルヒオルは、ふと誰かに守られていると感じた。 眼の前の脂ぎった巨体でも強固な城壁でもない、もっと身近な誰かに。
自分を知らない、自分は知っている誰かが、近くにいると分かっていたのだ。
その晩も、メルヒオルは子爵の「呼び出し」を受けた。

次の日も、メモを胸のポケットに入れ書庫へと向かう。
お守りとも呼べるメモを触っていると、舞い散る埃も気にならない。
黒の表紙を貼られた本を手に取る。 またメモを見つけられないかと期待しつつページをめくっていく。
何も発見はなかった。 黒の本を閉じる。 一瞬、指先に違和感を感じた。
裏表紙が妙に分厚い。 表表紙と比べると確かに差がある。
ここに何かが隠されている。 そう直感したメルヒオルは裏表紙を覆う薄紙を剥がす。
剥がしていくうちに、茶色い何かが見えた。 メルヒオルの体がぶわ、と熱くなる。
勢いよく剥がしきると、隠されていたのは折りたたまれた古い紙だった。
紙を取り出し、本を置く。 心臓の鼓動が早くなる。
ゆっくりと紙を広げる。 細かな四角がいくつも描かれていた。
四角の集まりが左と右に二つ。 全体の大きさは同じだ。
これだ。 メルヒオルはとっさに声をあげた。
この城の見取り図。 それも隠されるようなもの。 何かを隠すもの。
右下隅に書かれた年号は、今より二百年は前のものだ。
あの人にさらに近づいた。 メルヒオルの瞳に涙が浮かぶ。
見取り図を小さく畳み、メモと一緒にポケットにしまう。
もうすぐ使用人が食事だと呼びに来る時間だ。 メルヒオルは書庫を後にした。

夕暮れ、メルヒオルは見取り図を片手に城内を歩いていた。
見取り図を写したチェック用の紙に、一つ一つ印をつけていく。
二階は見取り図と寸分変わらなかった。 隠されたものがあるとすれば一階だ。
一階を探しに降りたところ、晩餉の時間を告げられた。 今日はここまでだ。

その夜、メルヒオルは夢をみた。
幼い頃住んでいたあの家。 叔母に引き取られる前の。
母と父がいる。 食卓の椅子に座り、こちらを見ている。 メルヒオルもテーブルを囲んでいた。
メルヒオルは自分の右に、誰かの存在を感じた。 その方向を見る。
知っているけど知らない誰かが、自分の右に座っていた。
顔がよく見えない。 母と父の顔ははっきりとしているのに。
その誰かが話しかけてくる。 口は動いていても声が聞こえない。
この人が、その人なのだろうか。
そう思った時には、朝日が昇っていた。

今日は一階を探す。
朝食を終えたメルヒオルは、日に照らされる廊下を歩く。
北から一部屋一部屋、調べていった。
南に向けて足を運んだ時、メルヒオルは気づいた。
書庫のすぐ隣に、入ったことも見たこともない部屋がある。
その思考が頭に浮かんだ瞬間、メルヒオルは書庫へと走っていった。

書庫の扉が見える。
手前の廊下を覗いても、調度品の押しこまれた倉庫へつながる通路以外は何もない。
周辺を調べても、その隠された部屋への入口にあたるものは、見つからなかった。
もしかしたら、書庫の中から繋がっているのか。
踵を返して、中へと進む。
隠された部屋は、書庫の西に存在している。
見取り図を長い間見つめ、メルヒオルは確信した。

書庫に踏み入り、メルヒオルの手で多少なりとも整頓された本棚達を見上げる。
汚れを落とされて陽の光を通すようになった窓から、朝日がさしていた。
書庫の西。 西を見ても本棚と壁、そして祭壇をすっぽりと覆う黒い布しかない。
その日に照らされた黒い布が、メルヒオルの目に止まった。
布を完全に取り去り、木製の祭壇を露にさせる。
メルヒオルの身長と同じほどの祭壇の中央には白い十字架。
それを左右対称の二人の天使が物珍しそうに眺めている彫刻が施されている。
奥行きは深く、中に大人一人がすっぽり隠れられそうだ。
綺麗だ、とメルヒオルは思った。
小鳥や植物の細かな彫刻をなでていると、一つ違和感が。
群れ飛ぶ鳥の彫刻。 そのうちの一羽が、祭壇の右側面にまで飛び出している。
左側面に鳥はいない。
気になってその一羽に触れる。 他の彫刻よりもわずかに大きい。
触れているうちに、鳥が動いた。 引っ張れば抜けそうだ。
歪んでいるのか、引っ張るのには力が必要だった。
取り外された鳥の彫刻。 裏側に奇妙な形をした鉄製の棒が付いていた。
鍵だろうか。 メルヒオルはそう直感した。 だとすると鍵穴が存在するはずだ。
鍵穴を探そうとした時、使用人がメルヒオルを呼びに来た。

夜。
この城で起きて、歩いているのはメルヒオルだけだ。
ランタンにも火を付けずに、夜目をこらしながらそろそろと歩く。
書庫に入り、あの祭壇の前でようやくランタンに火を灯した。
あるとすればここしかない。
隠された部屋への入り口は、メルヒオルの目の前だと見取り図が教えてくれている。
鳥の彫刻を外し、鍵を見つめる。 この形に合うものが、どこかにあるはずだ。
祭壇をくまなく探す。 それらしい部分に鍵を差し込んでも、手応えはなかった。
ふと、祭壇の正面に掘りこまれた一人の女性と目があった。
女性は穏やかな顔をしており、胸の前で手を合わせている。
その手の隙間に、小さな穴が開いていた。
ほとんど無意識に、その穴に鍵を差し込む。
入った。 ゆっくりと、鍵を回す。
小さく、かちゃりと音が聞こえた。
その音の方向に目をやると、祭壇下部の板が僅かに開いていた。
板を押すと、内開きに動く。
メルヒオルは、隠された部屋を見つけた。

膝をつき、祭壇下部の扉に手をついた。
見つけた。 ついに見つけた。 メルヒオルは、破顔一笑した。
カンテラを手に取り、扉を押し、中に入る。 真っ暗だ。
大人一人が這いつくばってやっとの狭い通路をしばらく進むと、開けた空間に出た。
隠された部屋はここのはずだ。
窓はなく、書庫以上に埃っぽい。 カンテラの光を頼りに歩く。
一つ、金属の擦れる音がした。
メルヒオルはとっさに身構える。 音のした場所に、恐る恐る近づいていく。
「誰かいるんですか」 その声は震えていない。
金属音が、また二つ。 メルヒオルはもう一度呼びかけようとした。
それより先に、声がした。
「あぁ、私がいるよ」
男の、枯れた声がした。 メルヒオルはその声に、懐かしいものを感じた。
「僕は、あなたに会いにきました」 さらに近づく。
「私に?」
「そうです、あなたに」
「きみのような知り合いはいないな、きみは誰だい?」 声がずいぶん近くなった。
「僕はメルヒオル=ニードリクです」
「メルヒオルか。 きみの名前はメルヒオルというのか?」
カンテラの光がその声の主を捉えた。
黒のズボンを履き、破れたシャツをまとっている。 真っ赤な髪が、床に力なく広がっていた。
彼の胸には、長剣が深々と突き刺さっていた。
細い腕でその長剣をおさえ、「彼」が身を乗り出す。
「メルヒオル、もっと近くに来てくれるか」
よく見ると彼の足には楔が打ち込まれており、床に固定されていた。
「この通り動けないんでね、頼むよ」
言われた通り、メルヒオルは彼のすぐそばまで歩み寄る。
「メルヒオルか、それは偽名だろう?」
「やっぱりばれちゃいますね、お祖父ちゃん」
メルヒオルが最大の目的にしていたあの人とは、隠された部屋に幽閉された「お祖父ちゃん」だった。

「……何だって? お祖父ちゃん?」
長い赤髪で隠れた彼の顔に、笑みが浮かんだ。 メルヒオルにはよく見えない。
「アポロニアという人を覚えていますか」
「アポロニア? あぁ、覚えているよ。 詩人だ、私のもとで良い詩を歌ってくれた」
少し項垂れて、こう続けた。
「まぁ、私のもとから去ってしまったんだがね」
「あなたは、アポロニアを愛していましたか?」
「あぁ、そうだ」
「祖母も、あなたを愛していました」
ぱっと顔を上げる彼。
「……いや、彼女は私を……」
また深く俯く。
「僕の母の名は、ガルデーニエです」
彼は何も言わない。 ただ、床を見つめている。
長い沈黙の後、彼は小さく呟いた。
「そうか、ガルデーニエというのか」
「はい」
「あぁ、アポロニア…… きみは、きみは……」
埃を被った床に手をつき、メルヒオルに顔を向ける。
「……もう涙も枯れたか、私は」
カンテラが照らすその顔は、確かに母に似ていた。

「ガルデーニエは、今どうしているんだ?」
その答えを、メルヒオルは渋った。
「教えてくれ、私の娘はどこにいるんだ?」 懇願する瞳が、メルヒオルを貫いていた。 話そう。
「母は、父と共に眠りました」
彼は、何も言わない。
「僕に全てを遺してくれました」
メルヒオルは、彼が安堵を含んだ顔をしているのを見た。
「そうか、それなら、よかった。 きみは、それが何を意味しているか知っているね?」
「えぇ、母から何もかも教わっています」
「本当にいい子だ。 私は祝福されたな、アポロニア」

彼が、メルヒオルを見る。
「きみの名は? 教えてくれ、ガルデーニエの子よ」
メルヒオルは答えない。
「よく調べているな。 さすがだ」
「母が教えてくれました、本当の名を人に明かすなと」
「特に私のようなものにはな」 ふふ、と掠れた笑みが聞こえる。
「いずれ教えますよ、お祖父ちゃん」
「なんだかくすぐったいな、そう呼ばれるのは」
「じゃあなんて呼べばいいんですか?」
彼は右手人差し指をくるくる回しながら、思案にふけった。
「んー、そうだな。 ゼナファンと呼んでほしい」
「分かりました、ゼナファンさん」
そう呼ぶと、彼の口角が僅かに上がった。
「それで、きみは私を殺しにきたのかい?」
「やはりそれが望みですか」
「……きみは何もかも知っているようだな」
「ええ、母が祖母から伝えられています」
「そしてきみへか」
ゼナファンの指がメルヒオルをぴし、と指す。
「そうか、私の見知らぬ娘とその子が、会いに来てくれたわけか」

カンテラの蝋燭が残り少ないのを見て、メルヒオルは部屋に戻ることにした。
幽閉された祖父、ゼナファンに別れを告げ、隠された部屋から去ろうとする。
一度振り返り、カンテラの火が僅かに照らす祖父に話しかける。
「また明日会いに来ます、お祖父ちゃん」
「あぁ、また会おう、メルヒオル」 こちらに手を振っているのが見える。
メルヒオルはふわりと笑い、部屋を後にした。

部屋でベッドに寝転がり、メルヒオルは思い出していた。
母ガルデーニエが何度も繰り返し、メルヒオルにささやいたあの言葉を。
「私の名前はね、お父さんとお母さんが大好きな花の名前なのよ」
母にその名を与えたのは、祖母であった。

あの部屋に行き、祖父と話が出来るのは夜だけだ。
次の日、メルヒオルは夜を待ち、静かに過ごした。
鹿狩りから帰った子爵が、撃ち殺したての鹿のソテーを貪る。
「メルヒオル、きみは大きくなったら学者か医者になれるよ!」
書庫に篭もりきりのメルヒオルの評価は上々のようだ。
「ありがとうございます」
「今日の夜は、本で読んだ話でもしてもらおうか!」
一瞬、メルヒオルの手が止まる。
「……分かりました、ではまた後で」
逃げるように、食卓を後にするメルヒオル。
また今夜もあれの相手をしなければならない。
そう考えるだけで背中が凍る。

夜更け、子爵の部屋に向かう。 憂鬱だ。
部屋に入ると、いつものように子爵が寝台に座って待ち構えていた。
メルヒオルは、にやにやとした笑みが向けられているのを感じた。
そのにやにやとした笑みが、ふと消えた。 途端に、苦しそうな表情に変わる。
頭を抱え、崩折れる子爵。
何が起きたのか分からなかったが、メルヒオルは使用人を呼びに走った。
息を切らせながらやってきた使用人が子爵を一目見た後、メルヒオルにこう伝えた。
「これは伝染性の病かもしれない。 メルヒオル、あまりこの部屋に入らないように」
それを聞いたメルヒオルは、はい分かりましたと口調だけ心配したふうを装い、部屋に戻った。
そういえば昨日、帰りがけに祖父が現在この城を所有しているのは誰だと訪ねてきた。
正直に子爵の名を答えたのだが、もしかしたらそれに一因があるのかもしれない。
使用人達が主の一大事に右往左往している間をすり抜け、メルヒオルは祖父のものへ向かった。

「それで、その子爵とやらはどうなった?」
「びっくりしましたよ。 いきなり顔を真っ赤にさせて倒れるんですから」
身を乗り出して楽しそうに、自ら行った逆医療行為の顛末を聞くゼナファン。
「ちょっとやりすぎたか? まぁ私の孫に手を出そうとした報いだと、諦めてほしいがな」
「そのおかげでここに来れる時間が増えましたけどね」
「きみも中々ひどいやつだな」
「あなたに言われたくないです」
二人で笑い合う。
「さぁ、これで我々一族が追われ討たれ散っていった理由が分かったはずだ」
カンテラに照らされているはずなのに、周りが一層暗くなる。
「我々は影に生きるもの、月光を浴びるもの、万物の名を喰らうものだ。 きみはもう知っているだろうが、広く吸血鬼と呼ばれるものの一つだよ」
ゼナファンの背には、いつの間にか赤く大きな二枚の翼があった。 それを手で触れながら、こう続ける。
「あぁ、みすぼらしくなったな。 私がこんな所に閉じ込められる前は、もっと綺麗だったのに」 残念そうに翼をたたむゼナファン。
「聞くが、きみはここに何をしに来たんだい」
「あなたに会うために、あなたを助けるために」
「あぁ、嬉しいね。 でも私はもう疲れたよ」
胸の長剣を掴み引き抜こうとするゼナファン。 長剣は僅かに動いたが、抜ける気配はない。
「あいつめ、憎たらしい咒いを仕掛けやがった」
試みを諦め、力なく下ろされる腕。
「自分の命にすら裏切られる始末だよ」
メルヒオルの手に、ゼナファンの手が重なる。
「頼む、私を殺してくれ」
メルヒオルはとっさに手を引く。
「想像してくれ、心の臓を貫かれる痛みを」
「嫌です」
「それが四六時中、いつも、いつもだ」
「嫌です」
「何故私がそのような責苦を負わねばならない! 私は、ただ生きていただけなのに! 何故だ! あいつらは何が気に入らなかったんだ!」
メルヒオルはカンテラを拾う。 叫ぶゼナファンから逃げるように、メルヒオルは部屋から出ていった。

目が覚めると、いつものように使用人が持ってくる服が置いてあった。
それに着替えて廊下に出るが、誰の気配もない。
一階に降りて庭を見ると、馬車が出ていくところだった。
馬車の後ろ姿を眺めていると使用人が見送りを終えて帰ってきた。
「誰が乗っているんですか?」 メルヒオルが尋ねる。
「子爵です。 しばらく高名なお医者様のもとでお過ごしになられます」
「そうなんですか、僕知りませんでした」
「病をうつしてはならないと、子爵がそうしたのです。 ……今日の朝に」
迷惑そうな顔を見せた壮齢の使用人が、廊下を小走りで進んでいった。
「ちょっとやりすぎたって話じゃすまないと思いますよ、お祖父ちゃん」
誰にも聞こえないように、メルヒオルは呟いた。

主を失い、普段より静かになった城。
ただ一つの物音は、メルヒオルの足音だ。
日課となっている祖父ゼナファンへの訪問。 今日もメルヒオルは隠された部屋に向かう。
「僕です、メルヒオルです」
返事はない。
カンテラの光で、ゼナファンを探す。 といっても、いつも同じ場所にいるのだが。
「今日も来たのか」
やっと声が聞こえた。
「昨日は…… すまなかった、見苦しいところを見せたね」
「いえ、気にしないでください」
「もう二度と来てくれないものと思っていたよ」
「何言ってるんですか、あなたは僕のただ一人の血族ですよ」
「嬉しいね、こんな私でも家族と言ってくれるのか」
身を起こし、メルヒオルを見るゼナファン。
「きみは、私を助けに来たと言ったね」
「はい」
「それは嬉しいよ、本当に。 でもね、私はもう解放されたいんだ、あいつから」
胸の長剣を見つめるゼナファン。
「きみが本当に私の事を思ってくれているのなら、分かってくれ」
「……はい、あなたがそれを望んだらそうするようにと、聞かされています」
「ガルデーニエ、賢い娘だ」 ゼナファンの顔がほころぶ。
「さぁ、頼む。 私を知る者に最期を看取ってほしいからな」
「……あの、明日にするのは駄目ですか?」
「明日? 何か用でもあるのかい?」 小さく首をかしげた。
「えぇ、明日じゃないと駄目なんです。 そのための準備も、していますから」
「そうか、最初から決めていたんだね」
「何もかも全部、母の言うとおりにしているだけですけど」
「あぁ、ついに私にも皆のもとへゆく日が来るのか」
そう語るゼナファンの顔は、微笑んでいた。

二本目の蝋燭が尽きるまで、二人は話した。
メルヒオルが幼い頃に母から聞かされたお伽話。 ゼナファンとアポロニアの馴れ初め。
夜空から眺めるこの地の風景や、飼い犬が子供を産んだこと。
祖父と孫二人きりの、温かい時間だった。

ベッドで目覚めたメルヒオルは、飛び起きて窓を見た。 晴れている。 これなら大丈夫そうだ。
今日のために前々からくすねて部屋に隠していた道具を確認する。
ロープと、テーブルクロスの白い布。 そして大きな鉈。
道具をまた隠し、朝食を食べにいく。
使用人達は主のいなくなった城でそれなりに自由を満喫しているらしい。
普段は寡黙に仕事を続ける彼女たちも、今はお喋りに夢中だ。
メルヒオルは、祖父の治める城はこのようなものだと感じた。
そして、今日が祖父の最期の日だと。

使用人がお喋りまじりに夕食の食器を片付けているのを横目に、メルヒオルは道具の入った袋を背に書庫へと走る。
「来ました、メルヒオルです」
「あぁ、待っていたよ」
道具入の大きな袋を背負ったメルヒオルに、ゼナファンは笑った。
「大荷物だね、どこかに旅行でもするのかい」
「あなたがどう言おうとも、ぼくが納得するための道具を持って来ました」
袋を開け、中身を床に置く。 鉈が現れた時、ゼナファンは声を上げた。
「鉈? 何に使うんだ、それは。 それで切っても私は死なないよ」
「そっちのほうが好都合なんですよ」
鉈を手に取り、ゼナファンに歩み寄る。
「あなたを、ここから出します」
楔を打ち込まれたゼナファンの足に向かい、メルヒオルは鉈を振るった。

「何度かあったとはいえ、やはり慣れないな」
楔のついたまま転がる自分の足首から先を見て、ゼナファンは呟いた。
「何度かあったんですか?」
自分の体よりずっと大きいゼナファンの体を背負って、メルヒオルはゆっくりと歩いていた。
「まぁこの歳まで生きていれば何度かあるさ。 それより重くないか?」
「いいえ、思っていたよりうんと軽いです」
「あぁ、それはよかった」
祭壇の扉へと繋がる通路は、ゼナファンの体にロープを結んで引っ張る。
百年以上封じられていたせいで、その体には力が残っていないようだった。
書庫に出た時、ゼナファンは小さくこぼした。
「あぁ、懐かしいな」
メルヒオルが整頓した本棚達が、並んでいた。
「あの本だ、あの本。 アポロニアに贈る詩を考えるのに使ったんだ」
ゼナファンはそう言って女性へ送る詩の書き方の指南書を指さした。
「その本なら、僕も読みました」
「あはは、いいものだっただろう」
胸の長剣に気をつけながら、ゼナファンを背負うメルヒオル。
「あいつめ、私の蔵書もごっそり持ってきたのか」
憎らしげに書庫を眺めるゼナファンを背に、メルヒオルは目的の場所に進んでいった。

書庫の扉を閉め、暗い廊下を歩く。 メルヒオルはカンテラを持っていない。
今まで何度も通った道だ、光がなくとも問題はなかった。
「どこに向かっているんだ、きみは」
「まだ秘密です」
「あぁ、それは楽しみだな」 ゼナファンが小さく笑う。
ベルトにはさんだテーブルクロスが抜けそうだ。 メルヒオルは、なるべく振動させないようになお慎重に歩みを進める。
階段を登り、二階に出た。
月の明かりが廊下を覆っている。
「あぁ、いい風だな」
開け放しの窓から通る風が、ゼナファンの髪を揺らす。
「もう少しです、待ってて下さい」
屋上に続く階段の扉を、メルヒオルの手が開いた。 階段の中は暗く、夜目をきかせても足を踏み外しそうだ。
階段を登りきり、隙間から月明かりのこぼれる木の扉を押す。

メルヒオルとゼナファンを、満月が出迎えた。
「あぁ、これは素晴らしい!」 ゼナファンが満面の笑みで手を叩く。
「よかった、ちゃんと晴れましたね」
「もしかして、今日でないと駄目だと言ったのは満月の事なのかい?」
「えぇ、そうです」
「ありがとう、嬉しいよ。 私も良い孫を持ったな」
一番月に近い場所までゼナファンを運び、そっと下ろした。
「こんな良い日に死ねるとは! 生きてみるものだな、本当に」 満月を見上げながら、ゼナファンは大声で笑った。
メルヒオルは、それを見ていた。 かつては夜に生きたものが、夜に死ぬのだ。
しばらく、ゼナファンとメルヒオルは月を眺めた。 月の模様の細かい所まで、ずっと眺めていた。

先に沈黙を破ったのはゼナファンだった。
「さぁ、頼む」
弱り果てた腕で姿勢を直し、メルヒオルが長剣を抜きやすいようにする。
「分かりました、お祖父ちゃん」
メルヒオルが、長剣の柄に手をかける。 その手に、力を込めた。
少しずつ、剣が抜かれていく。 そのたびにゼナファンが呻き声を上げる。
「大丈夫ですか、お祖父ちゃん」
「平気さ、私に構わずやってくれ」
メルヒオルは小さく頷き、さらに剣を引き抜く。
百年以上も吸血鬼を封じていた長剣が、その任を終えた。
ゼナファンの胸に残された傷から、僅かに血が噴きだした。 メルヒオルの顔に、その血が飛散る。

「あぁ、意外と楽なんだな、死ぬのは」
背中メルヒオルに支えられ、月を見ながらゼナファンが言った。
「今日は特別綺麗な月ですね」
「あぁ、そうだな」

ゼナファンが視線をメルヒオルに向け、小さく話しかける。
「言い難いんだが…… その、きみの血を吸わせてくれるかい? きみを忘れたくないんだ」
「僕の血をですか?」
「あぁ、そうだ。 安心してくれ、きみがこれのせいで我々一族と同じになることはない」
「僕はそうなっても、構わないんですけどね」
メルヒオルが右腕のシャツをまくり、肌を露にした。 その腕を、ゼナファンの口元に運ぶ。
「悪いね、痛くないようにするよ」
メルヒオルは針で刺されたような痛みを感じた。
「あぁ、ありがとう。 これで皆に会いに行く元気が沸いたよ」
「よかったです、本当に」

「お祖父ちゃん」
「なんだい?」
二人を、月光が包んでいた。
「あなたに、僕の本当の名を教えます」
「そうかい、教えてくれ」 ゼナファンの声は、はるかに小さくなっている。
「僕の隠すべき名は、祖母から受け継ぎ、母から名付けられました」
「アポロニアが考えたのか? それは楽しみだな」
「僕の名は、ハビエルです」
閉じられていたゼナファンの目が、開かれた。
「良い名だな」
「ありがとうございます」
「あぁ、本当に良い名だ」

ハビエルは、祖父を支える手に、もう一つ手が重ねられたのを感じた。
「ハビエル、私の本当の名をきみに渡そう」
「えっ?」
まさか、祖父の本当の名を託されるとは思っていなかったのだ。
「私の隠すべき名は、祖父から受け継ぎ、父から名付けられた」
ハビエルは、偉大な吸血鬼である祖父の本当の名を、待った。
「私の名は、ザフキエルだ」

ザフキエルの手がハビエルの顔に触れる。
「また会おう、ハビエル」
「はい、また会いましょう、ザフキエル」
その手が、落ちた。

ハビエルは泣かなかった。
祖父は、最期にまた会おうと言ってくれた。
彼ら一族の間で行われる儀の一つ。
本当の名を知った者同士で行われる、また再び会う事を約束する儀。
交わした者の片方が生きていれば、もう片方が死ぬような事態に陥ろうと三百年後に現世で再び「会う」事を約束するもの。
彼ら一族の持つ、死後の復活を約束するもの。
それを祖父が、自分と取り交わしてくれたのだ。

動かない祖父を、持ってきたテーブルクロスで包む。 白い布は、これしかなかった。
死を纏ったそれを、ハビエルは見下ろす。
ハビエルは祖父の触れていた自身の顔の部分をなでる。
手を見ると、指先が赤く染まっていた。
祖父のものだ。
ハビエルは躊躇なく、それを口にした。

途端に、体内に氷を打ち込まれたような強烈な冷たさがハビエルの全身を刺す。
視界が黒く反転し、四肢が震える。
ハビエルは床に転がり、その痛みと冷たさが去るのを待った。
全身の感覚が無くなった。 もはや痛みも何も分からない。

ハビエルが目覚めると、身につけていたシャツが引き裂かれているのに気づいた。
痛みに耐えながら、自分で引きちぎったのだろうか。 あたりに布きれが散らばっている。
ふと、背中に違和感を感じた。 ゆっくり手を背に回すと、何かに触れる。
ハビエルが振り返ると、背後に赤いものが現れていた。
祖父の語っていた、赤い翼だった。
ハビエルは、影に生きるもの、月光を浴びるもの、万物の名を喰らうものの一人となった。

祖父に駆け寄り、抱きあげる。 背負って運んだような重さとは思えないほど軽かった。
「僕も、僕もあなたと同じものになりました」
返事はない。
「僕は待ちます。 ザフキエル」
屋上の縁に、足をかける。
「三百年ですよね? 待ちますよ、ずっと」
赤い翼の作る大きな影が、月光を遮った。 かつて祖父の見た世界で、ハビエルは空を切る。

ハビエルはこの世界を、生まれて初めて美しいと思った。





















――――――――――――――

Melchior (♂)
前半要素はヘブライ語またはペルシア語で king の意味らしいが,後半は不明

Apollonia (♀)★
「太陽神アポロ」から派生したギリシャ語名 Apollonios (♂) の女性形

アカネ科クチナシ属の常緑低木。
初夏(6月〜7月)に白色の花を咲かせ、強い香りを放つ。
完熟した実は乾燥させて染料として用いたり、山梔子(さんしし)と呼ばれ漢方薬の原料として使われる。
花は食用にもなる。
「クチナシ」という名前は、実が熟しても口を開かない意味の「口無し」が語源といわれている。
欧米では、男性がはじめてのダンスパーティに女性を誘う時、この花を贈ることで知られている。
花言葉は私は幸せ、とても幸せです、この上なく幸福、とてもうれしい、幸せでとてもうれしい、優雅、洗練、清潔、喜びを運ぶ。
3月19日、4月29日、6月7日、6月14日、6月23日、6月28日の誕生花。
ドイツ語 Gardenie ガルデーニエ

 Xenophon (♂)
古代ギリシャの歴史家の名。
J&S の説明から推定するとギリシャ語 xenos (語意 stranger, foreigner)+ phone (語意 sound)で構成された名のようだ。
[カナ/慣用表記(歴史人名)]クセノフォン
[発音近似カナ表記/English] ゼナファン

 「神の智」を意味する名を持つ大天使ザフィエル。
別名として知られるのはザフキエル/Zaphkiel、ゾフィエル/Zophiel、ザフキアル/Zaphchialなど。
「神の監視者」「神の番人」「神の意志」ともいわれる。