おはなしの幾つ目かが終わり、碧竜が次のおはなしを頭の中で選ぶ。
気付けば静かに部屋の戸が開き、足音も立てずに見知らぬ侍従が二人、入ってきた。
赤い豪奢な服が擦れる音を僅かにさせながら、一巻の書簡を燕帝に差し出す。
殿下、ご一読いただきたく、と一言だけ言って二人はそそくさと出ていってしまった。
革製の書簡には小さな文字で篇目があったが、碧竜には読めない。
燕帝がゆっくりと書簡を纏める紐に手をかけたが、解くのを止めて手近な机に放り投げた。
「これは後回し」
「よいのか」
「良いのだ、構わん。 書物はいつでも読めるだろう」
それに、と小さく続ける。
「それにわしは、まだ帝と呼ばれるようなものではない」
「なに、そうなのか」
周囲の人間が”燕帝様”と呼ぶので、碧竜もそれを一切疑わなかった。
自分の隣に座っているのが、未だ帝位のないただの少年なのも。
「まだ正式に帝位は継いでおらんが、ただ、独り子のわしの他に後継候補はおらぬからな。
このまま順当にいけば、わしは父上に次いで帝位を賜る事になる。
周りが帝と呼ぶのも…… えぇと、予定調和とかいうやつじゃ。
だがな、元服を済ませねば後継の権利はわしにはない。
式の最中にわしを狙ったのも、わしが後継権を得る前に消しておきたかったのだろう」
囁くように、続けて語る。
「式はまた後日となった。 また今度あのような……」 語尾が消え入っている。
小さく隣に座る、まもなく十二歳となる少年。 それを見る、碧竜。
「だいじょうぶだ、おまえをしなせはせん」 碧竜は、いつものように、いつもの調子で言う。
それを聴いた燕帝が、碧竜をじっと見る。 見合ったまま、二人はしばらくそのままでいた。
「あぁ、そうだな、ぬしがおれば安心出来る」 ようやく言葉を見つけた様子だ。
それから、何も言わずに、二人はただ隣り合って座っていた。
しばらく後に、あっ、と燕帝が素の声を出したかと思うと碧竜の袖を引っ張った。
「あの、いや、これは内密にな? わしが言ったことは全て秘密にしてくれ、頼む」
「ひみつに」
「決して誰にも言ってはならんぞ。 本当はこれ、他言無用の事柄なのだからな」
「そうか、わかった」
それを聴いて安心したのか、燕帝が小さく笑った。
「約束だぞ。 じゃあ次、次の話をしてくれ、碧よ」
「うん、そうだな」
碧竜の顔は無表情だが、普段のそれとは多分、僅かに異なるのだろう。
碧竜が次のおはなしをしていると、戸が開く音がした。
豪華な燭台を持った女官が三人入ってきて、並んで座る二人を見ている。
「あの、燕帝様。 そろそろ御休みになるお時間ですが……」
女官の一人が、恭しく燕帝に話しかける。
「もうそのような時間か? まだ猶予があると思っておったが」 明らかに物足りなさそうだ。
やり取りを無言で聞いていた碧竜は、次のおはなしを何にしようか考えていた。
「あと少しだけ、駄目か」
「いけません殿下、決まりです」
また別の年配の女官が、はっきりと言う。
「そうか……」 渋々、碧竜から離れていく。
とぼとぼと女官の一人について歩く燕帝が、ふと碧竜を振り返った。
「のう碧。 続きはまた明日、頼むぞ」
「うん」
その返答に満足したのか、燕帝は碧竜に笑みを見せて、軽快な足取りで去っていった。
「ご夫人、貴方はこちらへ。 部屋を用意してあります」
残った二人の女官が、碧竜を挟んで立っている。 退室を促す女官について、碧竜も部屋を出た。
帝宮の一角に、碧竜の部屋が宛てがわれた。 窓の端から、二人の見張り兵の後ろ姿が見える。
黒は睡眠をとらないが、部屋を眺めているだけでも時間が潰せそうだ。
何をするでもなく、人間がそうするように寝台に潜る碧竜。
ふかふかとしたものに包まれるのも悪くない、暫く布団を堪能する。
眠る事を知らなくても、その良さは伝わったようだ。
布団に全身を包ませ、ただじっとする。
部屋からは出るなときつく言われたが、そもここから出る気は起きなかった。
人間がそうするように、目を閉じてそのままでいると、ふと弱い気配を感じた。
自分と同じ、黒の気配。 こんなところに同胞がいたのか。
その黒は碧竜に気づいていないのか、こちらに近づいてくる様子はない。
碧竜の中に捕食欲が沸き立つが、目立つ事はしてはならない。 変化するのも禁じられている。
碩との約束を忠実に守り、じっと、その黒の動向を探る。
黒の気配はやや高い位置から発せられている。 飛んでいるのか、屋根の上にでもいるのか。
滑るように移動するその気配。 目的が決まっているかのようだ。
気配は半刻ほど上方を漂っていたが、突然消えた。
消えた気配を碧竜が探っていると、また不意にその気配が現れた。
先程と同じく、上方を移動する黒の気配。
一瞬だけその動きが止まったのと、巡回の兵が叫ぶのは全く同時だった。
何と叫んだのかはよく分からなかったが、異様なものと出くわしたような、声をしていた。
夜の静寂を打ち壊して一転、帝宮中が騒がしくなる。
碧竜の部屋を見張る兵の二人が、不安そうにぼそぼそと話し合っている。
黒の気配も若干その騒がしさに狼狽しているようだが、またすぐに移動を始めた。
先程とは違い、その気配は迷いのある動きをしている。
そして、こちらに向かっている。
気配の移動に合わせて、兵達の起こす無数の足音が廊下を移動する。
口々に止まれだの動くなだのを言っているが、気配は完全にそれを無視している。
廊下に面した窓に近づき、少しでも部屋の外の情報を集める碧竜。
いよいよその気配が近づいてきたその時、碧竜は曲がり角の天井を這って動く黒い影を見た。
黒い影は、あの時燕帝を狙った何者かと、同じ姿をしていた。
四つん這いで天井を這う、見た目こそは人間だが、そうとは思えない動きをしている何者か。
全身を覆う黒い着衣がわずかに崩れ、肌を見せていた。 碧竜はその肌の下に、同胞、黒を感じた。
それが碧竜のいる部屋の前を通り過ぎたその瞬刻、碧竜は何者かの右肩から、大きな橙色の瞳が睨んでいるのに気づいた。
あれは、黒の瞳だ。 瞳孔の無い、透き通った鉱石のような瞳。
ただ、何者かが黒だとしても感じる気配が弱すぎる、と碧竜は思考していた。
何者かを追いかける兵達の最後尾の一人が、碧竜の部屋を見張る兵に、何か短く言い放って去っていった。
見張りの兵の一人が、窓越しに碧竜を振り返る。
「おい、いるか? ……いるよな、静かにしてろよ」
二人の見張りは、先程目の前を通った天井を這う得体の知れないものに、恐慌している様子だ。
「今の何だったんだ? 人間じゃないぞあんなの」
「どうしよう、俺目が合ったよ呪われたりしないかな」 何者かは完全に、怪異と捉えられているようだ。
一瞬で通り過ぎた黒の気配は、何処へともなく消え去っていた。
その肩に見た、橙色の瞳を思い出す碧竜。
数歩の近距離にまで迫っても、橙色の瞳から感じられる気配はごく弱かった。
碧竜は、理由を思い出していた。
黒の持つ知や力欲しさに、体に黒を宿らせる人間がいるのを聴いた事がある。
人間の肉を着れば、黒が発する気配も小さくなる。
恐らくはあの何者かも、黒を体内に入れているのだろう。 それなら、あの気配の小ささも納得出来る。
しかし、何故そのような人間がここにいる。 何らかの目的があって来たのだろうか。
それが黒の捕食であれば、間違いなく碧竜を狙って来るはずだが、それが無かった。
目的は、何か別のものだろうか。 何処にあるのだろうか。
それを碧竜が思案し出した時、また別の方向から遠く、よく響く女官の叫び声がした。